僕は激怒した。
必ず、かの悪辣無益なエイプリルフールを除かねばならぬと決意した。
僕には恋愛が分からぬ。僕は男子校出身である。母親以外の女性とほとんど話すこともなく中高6年間をすごし、大学に入って2年経った今なお彼女ができない。だが己の恋路を邪魔するものには人一番に敏感だった。
*
ときはバレンタインの夜に遡る。そう、僕が恋い焦がれてやまない黒髪の後輩が、不意のチョコレートをプレゼントしてくれたあの夜である。
「幸せな妄想をぶち壊して悪いが、そのチョコは恋愛感情からではないな」
横にいた阿久津は、彼女が立ち去るやいなや僕の心に切れ味鋭い一言を突き立ててきた。
学部の腐れ縁である阿久津の顔面偏差値は僕とはそれほど変わらないはずなのに、なぜか彼女が絶えない。
この前も、カフェの店員をご飯に連れ出して、今はその人と付き合っているらしい。どんな手練手管を用いてそのような恋愛曲芸をやってのけたのか。
「相手が自分に好意があるのかないのか、好意があるとしたらどんな種類の好意なのか、それは声や表情でなんとなくわかる。あのチョコは、そうだな、博愛精神がたまたま居合わせた知り合いに向けられたものって感じだな」
「なんでわかるの」
「おれ神だから」
「神に詫びろ。しかるのち死ね」
「生きろ、おれは美しい」
「黙れ小僧。お前に僕が救えるか!?」
「わからぬ・・・だが助言することはできる!」
バー「KOKOん」に入ると、阿久津の怒濤の恋愛講義がはじまった。
まず、僕はデートに誘うことをおおごとに考えすぎているそうだ。
「好きならさっさとご飯に誘え。外堀を埋めに埋めて、石橋を叩き尽くしてぶち壊した末に『ぼ、ぼぼぼぼぼくと、デデデデデデートに行ってくださいいいいッッ!!!』なんて誘っても重くてキモいだけ。サラッと一言『ご飯いこ』でいい」
それに、好きバレを恐れているのもよくないらしい。
「好意なんてバレてなんぼ。好きバレを恐れているのは自信がないからだ。自信がないから、好意を悟られて距離を取られたらどうしよう?と心配になるのだ。そんなやつと付き合いたいと思うか」
心に無数のナイフが突き立つ音が聞こえてくる。阿久津は容赦なく続けた。
「いま脈がないなら百年外堀を埋め続けても未来永劫ずっと脈なしだ。脈がないと思うなら諦めろ。少しでも可能性があると思うならさっさと行動に移せ」
阿久津の言い草は棘そのものだが、納得せざるを得ない。次にサークルで彼女と話す機会があったら、勇気を出してご飯に誘わねばなるまい。僕はグラスの残りを一気に飲み干した。
「出よか」
「さあコンサルタントへの報酬を払いたまえよ」
ニンマリと笑う阿久津を睨みつけながら、僕は財布を取り出して会計に向かった。
**
そんなバレンタインの夜から一ヶ月半。今日は久しぶりのサークル飲み会がある。
ここ数週間、僕は血反吐を吐くような鍛錬を繰り返してきた。どもらず、挙動不審にもならずに「ご飯いこ」を自然に言いおおせるための練習を重ねてきた。抜け目なく彼女の隣を確保し、よもやまの話で盛り上がったのち、居合抜きの達人のごとくキレのあるさりげない「ご飯いこ」を放つことによって僕の薔薇色の大学生活は開けるのだ。
飲み会は18時からだが、僕は8時には起床した。なぜなら、お気に入りのシャツを洗濯して乾燥機にかけアイロンを施すのに3時間弱、シャワーを浴びて髪を乾かして整髪するのに1時間半、そして彼女との会話のリハーサルに数時間を要し、多忙に多忙を極めたからである。僕の認知機能はすべて「ご飯いこ」の円滑な遂行のためにフル稼働されており、今日が4月1日であることに気づく余裕は少しも持ち合わせていなかった。
***
なぜ私はエイプリルフールについてかくも熱心に調べているのでしょうか。
「エイプリルフール ネタ」
「エイプリルフール 例」
などとGoogleの検索窓に打ち込んではまとめ記事を眺めるということをかれこれ2時間は続けています。
今日は朝から散々な一日でした。
私の一日はtwitterを開くところからはじまります。まず目に飛び込んできたのは「館下食堂」アカウントのツイートでした。そんなアカウントをフォローしていたかしら、と疑問に思ったのもつかの間、ツイート内容に私の心はたちまち平静を奪われました。
【お知らせ】
館下食堂は天津麻婆丼の提供を2020年度をもって終了いたします。これまで「てんま」の愛称でご愛顧いただきましたが、カロリーが高すぎるとの消費者庁の注意喚起を受け、苦渋の決断ですが、大学生の健康を最優先し今回の決定に至りました。てんまへの長年のご愛顧に感謝申し上げます。
えええッ!!??てんま無くなっちゃうんですか??
てんまは阪大生の生命線です。このメニューなくしては必要なカロリーもタンパク質もコスパ良く摂取することができず、お財布のお寒い私たち学生はいずれ餓死するほかありません。
入学してから今日までのてんまとの愛すべき思い出の数々が、走馬灯のように脳裏を駆け抜けていきました。
鍋に注がれる油の量にギョッとしたこと。
悲しいつらい思いをした日にもりもり食べていたら、胃のモタレに意識を奪われて悲しい気持ちがすっ飛んでしまったこと。
数々の恩義を忘れ、天津カレーにたった一度の浮気をしてしまったときも、てんまさんはそのカロリー量のごとき器の大きさで私を許してくださったこと。
それに、食べ終わるころには「こんなにお腹に重たいものは一生食べません!!」と決意していたはずなのに、3日後にはまた食べたくなってしまうあの摩訶不思議な体験をもう二度と味わうことができないのでしょうか。そうです、人の心はかくも儚く移ろいやすいものであること、この世の諸行無常を、私はてんまさんから教わったのです。
失った悲しみを紛らわすようにタイムラインをスクロールしていると、またまた衝撃的なツイートが目に入ってきました。
それは、私がお姉さまのように尊敬しお慕いしている義崎先輩のツイートでした。
「国連ユースボランティアの活動のため、1年間ワカンダに行ってきます。渡航まであと1週間ほどですが、みなさん飲みに誘ってください!」
ああ、大好きな先輩が行ってしまう!!そもそもワカンダってどこ?アフリカのお国?そんな遠くへ行ってしまうの!?
みんなから慕われている義崎先輩のことだから、早くお誘いしないと飲みに行く予約が埋まってしまいます。あわてて電話をかけると、義崎先輩はいつもの透きとおるような声でひとしきりお笑いになったあと、まだ笑い収まらない声でおっしゃいました。
「ワカンダってググってみて」
“ワカンダ(Wakanda)は、マーベルより出版されているアメコミに登場する、アフリカの架空の国。”
へ??架空の国!!??
「今日はエイプリルフールよ」
なるほど、今日は4月1日です。
ハッと思い返してスクロールし、てんま廃止のツイートを探してよく眺めてみると、この「館下食堂」アカウントのIDは阿久津先輩のそれではありませんか。
@akutsu_is_god
という風変わりなIDは一度見たら忘れられるものではありません。中学生のころにお作りになったアカウントでしょうか。館下食堂になりすましてギリギリアウトな冗談を朝から公共空間にぶちまけるなんて、さすが阿久津先輩は独特のセンスをお持ちです。私も大学でさまざまな教養や専門を学んだあかつきには、阿久津先輩のような、常識にとらわれない柔軟な発想力を身に付けたいものです。
ネタだと分かったものの、胸のざわつきはそう簡単に収まるものではありません。私の大学生活から天津麻婆丼と義崎先輩を奪うことは、かよわき赤子から哺乳瓶とおしゃぶりを取り上げるようなものなのです。
それからというもの、私は起き抜けのボサボサの髪の毛にも構わず、エイプリルフールについて検索し続けました。
ああGoogle先生、いたいけで世間知らずな私をお救いください、嘘八百の嵐から!
Google先生のお導きで、私はエイプリルフールについてたくさん知りました。
起源や歴史的な経緯には様々な説があっていまだに定説がないこと。
最近は企業などもSNS上でネタを投じて楽しむようになってきたこと。
それから、エイプリルフール告白詐欺というものもあるようです。エイプリルフールにかこつけてフラれたときの保険をかけたり、冗談でデートに誘ってからかったりするそうですが、男女の間のアレやコレはおこちゃまの私には難しいことばかりです。
調べているうちに、私にはなにやらエイプリルフールがステキなものに思えてきました。
エイプリルフールとはつまり、センスとユーモアにあふれたウソを出し物として持ち寄り、屋台を連ねてわいわい楽しむお祭りのようなものなのです。
それに、義崎先輩は「せっかくだから」と二人でご飯に行く約束をしてくださいました。ワカンダはご冗談でしたが、8月にはデンマークへの交換留学に行ってしまわれるそうです。大好きな先輩が日本にいらっしゃるうちにご飯に行くお約束ができたのは、エイプリルフールのおかげというほかありません。
そう思うと胸のザワザワが落ち着いて、今日というウソの祭典をどこまでも楽しんでやろうという気持ちになりました。
今日の夜はひさしぶりにサークルでの飲み会です。
私のサークルのみなさんは茶目っ気とユーモアあふれるステキな人たちばかりですから、きっと『笑点』もたじろぐほどの抱腹絶倒のウソの応酬になるに違いありません。私はようやっとボサボサの髪を整える気力が湧いてきました。
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僕の計画は出鼻から挫かれた。
飲み会の席がランダムに決められてしまったのだ。
彼女の席は僕の位置からはずいぶんと距離があるから、遠くから眺めているしか栓がない。だが諦めるのは早い。二次会の席や二次会への移動中で話しかける機会はあるだろう。僕はそんなことを考えながら、同じテーブルの会話をうわのそらで聞きながら彼女を眺めつつビールを胃袋に注ぎ続けるだけの永久機関と化した。
それにしても今日の彼女はよく笑う。
普段からよく笑う子だが、今日は特によく笑う。
彼女は笑いの沸点が異様に低い。どんなことにも面白さを見出して破顔する彼女は、あの齢にしてすでに人生の達人というべきだろう。
一次会がお開きとなり、二次会の会場に向かうべく我々サークル員は店を出て石橋の路上に繰り出した。
次の二次会で同じ席になるとは限らないから、タイミングはここしかないだろう。僕は意を決した。
「やあ」
「あら先輩、おつかれさまです!」
「この前はチョコレートありがとう。美味しかったよ」
「いえいえ!先輩へのステキのおすそわけです」
「そういえば、切ってからだいぶ経つけど、ボブ似合ってるね」
彼女との会話が続く。会話のリハーサルに数時間を費やした成果をビンビンに感じる。だがのんびりはできない。次のお店に入ってしまう前に「ご飯いこ」を遂行せねばなるまい。僕はついにタイミングを見計らって乾坤一擲の一言を放った。
「そうだ、今度ご飯に行こう」
彼女はくすくすと笑いながら言った。
「それもエイプリルフールですね!ばっちり予習して知ってますよ!」
「・・・」
僕は激怒した。
必ず、かの悪辣無益なエイプリルフールを除かねばならぬと決意した。