「バレンタインが楽しみでしかたない」
と思う側の人間になるべく大学デビューを果たし、かれこれ2年。
どこで道を違えたのか。
二月は寒い。ついでにお財布も心も寒い。
こたつでのんびりぬくぬくしていたいところだが、私は下宿を出てがんこ寿司の横のローソンに向かった。願わくば彼女に”ばったり”出くわしたかったからだ。
日曜日の彼女は、沖縄料理屋でのシフトに入るため、18時すぎに坂下交差点のあたりを通る。
彼女はサークルの1つ下の後輩で、僕はひそかに想いを寄せていた。
先週サークルで見かけたときは、長かった黒髪をばっさり切っていて、小柄で華奢なうしろ姿に新しい髪型はよく映えていた。あとで調べると、ボブという髪型らしい。
「髪切ったんだ、似合ってるね」
脳内リハーサルをくどいほど繰り返した一言を彼女に伝えられれば、今日はそれでいい。
彼女が僕のために用意してくれたチョコレートを奇遇にも持っていて、奇遇にも”ばったり”会った私にチョコレートをくれるなどという期待は1ミリもしていない。
日はすっかり暮れている。
不審なほどゆっくり歩いてコンビニに向かったが、今日は彼女を見かけない。
家とローソンをもう一周するか。いやそれはさすがに怪しすぎる。
彼女に一目惚れしてからもう8ヶ月ほど経つが、特に何の進展もない。
中高を男子校で過ごした身には、女性と会話を弾ませデートに誘うなどという芸当は、10段組み上げたイスの上で逆立ちして足でリコーダーを演奏するサーカス曲芸なみに意味がわからない。
「お前は牛か」
背中に声が飛んできた。
阿久津だった。同じ学部の腐れ縁だ。
「何してるん」
「コンビニ」
「あっそ」
気味悪いほどの緩歩でわざわざ遠いコンビニに来ていることを訝しく思いながらも、興味ない、どうでもいいと言わんばかりの口調で続けた。
「メシ行かね?ライオンカレー」
今日は諦めるか、と思った。
いや、彼女からのチョコレートのことではない。僕は分別ある紳士だから、バレンタインなどという起源も由来もよくわからない企業戦略に踊らされるようなおこちゃまではない。彼女に”奇遇にも”遭遇するのはまたの日にしよう。
「おけ、行こ」
「うぇい」
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今日はどうしても観たいお芝居があったので、店長がシフトをお休みにしてくださいました。
生まれてはじめての宝塚歌劇は感動と興奮のてんこ盛りパックでした。
阪急宝塚から石橋阪大前への車窓をぼんやり眺めながら、お芝居のさまざまな場面を思い出して余韻にひたっておりました。
切ないお芝居に美しい歌声が響いて、ハンカチをかたときも手放すことができませんでした。ショーでは一転して、きらびらやかに移り変わる衣装やセットを眺めていると、私の心も踊りだすかのようでした。
終幕後も余韻だけでこれだけ幸せな気分にしてくださるタカラジェンヌのみなさんを尊敬しないわけにはいきません。それに、わざわざシフトを調整してくださったバイト先の店長にも頭があがりません。
つくづく今日の私はステキに恵まれすぎています。
ふと、昨年亡くなったおばあさまの言葉を思い出しました。
「人からもらったステキはね、独り占めしてるとバチが当たるんだよ。不思議なものでね、人に分けたモノやお金は自分の手元には残らない。けどねえ、おすそ分けしたステキは自分にも残るんだよ。そうやって世界のステキは増えていくんだよ」
人に幸せと感動を届けながら世界のステキを増やしているタカラジェンヌさん、なんてカッコいいお仕事なんでしょう。私も大学4年間で味わい深い経験を重ね、ゆくゆくは人々にステキを届けられるカッコいい女性にならねば!ついでに、伸びよ身長!と思いました。
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ライオンカレーでは、僕はいつもハラミステーキカレーを頼む。
心もお財布も冷え切っているが、今日はちょっと贅沢にして気を紛らわしたい気分だったので、ほうれん草とナストマチーズを追加で頼んだ。
ハラミの歯ごたえとジューシーさをカレーの刺激的な味と一緒に楽しむのがたまらなく美味い。黙って無心に食べていると美味しさで気が紛れたが、阿久津の一言で僕の小さな幸せはぶち壊された。
「あの子とはどうなん?」
阿久津は、心の繊細な部分をつついて人を不快にさせることに関してはプロだ。
「進捗なし」
「ご飯とか誘ったの?」
「そんなリスキーなことできるか。いまは着実に外堀を埋めている」
「ハハハハ!リスク取らな進展せえへん場面でヒヨるそのメンタリティが完全に非モテ」
阿久津は容赦ない。僕は腹いせに彼の皿からチキンを1つ奪った。
「そういうお前は?」
「昨日お茶したで。来週その子ともっかいお食事に行く」
僕とのご飯は「メシ」と呼び、女性とのご飯は「お食事」と呼ぶ阿久津に心の中で唾棄した。
「どこで知り合った子?」
「カフェの店員さん」
!!!?!?!???
それ、いわゆるナンパじゃない??
髪型ひとつ褒めることすらできない僕とどこで差がついたのか。
「へー、どうやって誘ったん?」
驚きで声が上ずりそうになるのを抑え、僕は平静をよそおって尋ねた。
「聞きたい?」
彼女との進展のない現状を打ち破るヒントが聞けるかもしれないという欲には抗いがたい。
「聞いたろ」
「じゃあ続きはKOKOんで」
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石橋阪大前のホームに降りた私は、一瞬踏み迷いました。
そのまま帰宅するなら東口改札ですが、こんなステキな日にさっさとおうちに帰ってしまうのはたいそうもったいなく思われました。はじめての観劇の余韻はお酒とともに味わい尽くさなければ人生の損というもの。今日こそは噂のバー「KOKOん」に行くぞと心に決めて西口の改札を飛び出しました。
足の長いカウンター席に座っておしゃれなカクテルを頼むというベタベタにベタな光景に憧れを抱いていた私は、迷わずカウンター席に座りました。
観覧車のようなかわいらしいメニュー表をからからと回していると、1つのメニューに目が止まりました。
「ブラックウィドー」
なんと妖艶でステキな名前でしょう!
ラムベースと書かれていますが、おこちゃまの私にはよくわかりません。
しかし、かの有名な女性スパイヒーローの名を冠するくらいですから、きっと大人の魅力に満ちあふれた刺激的なお酒にちがいありません。
「私もカッコいい大人の女性にならねば!」と意気込んだ矢先です。ここで怯んでは言行不一致、末代までの恥。
「ブラックウィドーをお願いします」
ママさんが手際よく出してくれたそのお酒は、琥珀色に輝く水面に、かすかな泡が品よく漂う「ブラックウィドー」の名にふさわしいお酒でした。
レモンをつかったカクテルなのでしょうか。カラメルを焦がしたようなまろやかな甘みと、一抹のほろ苦さを、柑橘系の風味がさっぱりとまとめあげてくださっています。
レモンさん、グッジョブ!
カクテルグラスを惜しむように眺めつつ、お芝居を頭の中で何度も再生しながら、観劇の余韻をお酒とともに味わい尽くしました。
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お会計をしようとしたときのことでした。
カウンターの上のカゴの中に信じられないものを発見してしまいました。
あれは、まぼろしのミスチチロルではありませんか!!
Mr. チーズケーキとコラボしたセブンイレブン限定のチロルチョコ!
あまりの人気にまとめ買いする不埒な鬼どもが跡を絶たず、ついに食することがかなわなかった垂涎の品です。
まさかこんなところでお目にかかれるとは。
さて、私は何かにつけ顔に出てしまうタイプなのです。ミスチチロルを発見したときの私の顔には、きっと恥ずかしくなるほど大きな字で「た!べ!た!い!」と書かれていたのでしょう。
「アハハハ!これかい?ほら持ってきなさい」
ママさんはミスチチロルを2つ無造作につかみ取り、惜しげもなく私の手に乗せてくださいました。なんと気前のよいことでしょう。
私もママさんのような器の大きい女性にならねば!と思いました。
お会計を済ませ、深々とお辞儀をし、私は嬉しさいっぱいでお店を後にしました。
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KOKOんは石橋商店街の南の果て、100円ローソンの向かいの2階にひっそりと構えている。
むさ苦しくも男二人で飲みに来るハメになった運命を呪いつつ、見慣れたネコの看板を横目に階段を登ろうとしたときのことである。
「あら、先輩、こんばんは」
階段の上から声が降ってきた。
青天の霹靂だ。
彼女が一段降りるたびに、手入れのいい黒髪がふわりと揺れる。
「髪切ったんだ、似合ってるね。」
用意していたはずの言葉が出てこなくて固まっていると、彼女が手を差し出してきた。
「はい」
思わず手を出すと、チロルチョコが1つ乗せられていた。
「今日はとてもステキにあふれた1日でした。これは先輩へのステキのおすそわけです。たくさんいただいたステキはおすそ分けしなければバチが当たるのです」
唐突すぎる事態に、僕は
「ありがとう」
と返すのが精一杯だった。
「それではおやすみなさい!」
彼女は手を振りながら夜の石橋商店街に歩き去った。