ギターをかき鳴らしながら授業をし、阪大でいっちゃんおもろい教授になった、人間科学研究科の千葉泉先生。しかし、これまでの人生は、憂鬱で苦しいものだったと言います。
“研究者失格”の千葉先生は、自分自身にどう向き合って、おもろい教授と言われるまでになったのでしょうか。将来に何となく不安を感じる人、なりたい自分と現実のギャップに悩む人、生きづらさを感じるすべての人に、いま読んでほしい本です。
千葉 泉 先生
ラテンアメリカ音楽家。大阪外国語大学を経て、現在大阪大学大学院人間科学研究科教授。「自分らしさ」活用学、音楽的コミュニケーション学、「語り合い」と共生、ラテンアメリカ地域研究。2017年に、大阪大学生協学生委員会が『Handai Walker』で実施したアンケートで、「大阪大学でいっちゃんおもろい教授」に選ばれた。
Contents
千葉先生の「自分らしさ」が詰まった本とは?
昨年、千葉先生は「自分らしさ」が詰まった本、『“研究者失格”のわたしが阪大でいっちゃんおもろい教授になるまで』を出版されました。今回はその本に記された経験を中心としてお話を聞いてきました。そこで千葉先生のお話に入る前に、本を読んだことのない方のために、少しだけ内容を紹介します。
長年「ネガティブな自分らしさ」(短所)ゆえに苦しんできた千葉先生。学者の家系に生まれ、学者になるように期待されて育ちましたが、生来の勉強嫌いに加え、視力上の困難を抱えていたことから、研究活動を好きになれませんでした。かと言って、家族の期待もあり、学者以外の道を選ぶこともできません。初めて大学教員として採用された時、「しんどい、きつい」という感覚に心が襲われ、採用を本気で断ろうとしたという「常識」外れのエピソードは象徴的です。
それでも、試行錯誤の中で「ポジティブな自分らしさ」(長所)を活かしながら、徐々に重要な学びを得ていきます。音楽が好きな千葉先生は、留学先のチリで現地の人とともに宗教民謡を習い、歌い手として活動しながら研究をしました。この経験はのち、国際協力の開発プロジェクトにおける、「自分らしさ活用」の社会的意義の発見にもつながります。*1
ところが、一度「ポジティブな自分らしさ」の活用に成功したといっても、人生そう簡単にいくものではありません。仕事上のある失敗をきっかけに、千葉先生は、長年にわたる鬱に陥ってしまいます。どうしようもない自己否定感にもがき苦しみながら、今度は「ネガティブな自分らしさ」の活用方法を模索します。その中で、教員も学生も自分の本当の姿をさらけ出し合い、自他をより深く理解し受け入れることで、「ともに生きる仲間」という意識が育まれる「語り合い」授業を生み出していきます。
*1:この本には、言葉では表現できない感情を含め、記述内容を読者により共感的に追体験してもらうため、千葉先生が演奏した18の歌(うち15曲がオリジナル曲)が付属しています。本著を紹介した出版社(明石出版)のHP上にアップされていますので、ぜひご視聴ください。
(https://www.akashi.co.jp/book/b502642.html)
「こんなこと意味があるのかな」と思っても続ける大切さ
千葉先生:
こんなのやっててもなんの意味があるのかなっていうこと、結構やってきたんですよ。
例えば演奏活動。ラテンアメリカって、ありとあらゆるへんてこな弦楽器があるんですね。全く同じモデルなんですけど、弾き方は全く違うんです。15世紀、16世紀のグローバリゼーションって、自分らしさが死なない形で共通の世界観があるというか、個性が死んでいないんですよ。そういう知識の広まり方って素敵だよねみたいな話をするために、6つくらい違うギターを持っていて、ぼく全部弾けるんですよ。
別に10年後にこのネタで授業するぞと思って練習してきたわけではなく、1個1個「これ素敵だな」「コロンビアのこれも捨てておけないな」という感じでやっていった。集積したら1個のすごい体系になっていて、それがぼくしかできない授業になっていたりするわけ。
そのモチベーションって、ただ楽しい、弾きたい、やりたいだけなんですよ。予定調和的な、こうしたらうまくいくよねっていうものではなくて。
受験勉強や昇進みたいに結果が予測できることも必要ではあるんだけども、なんか夢がないって言うか。私独自の、私だからこそできたというのがあってこそ、その人の人生ってすごく意味があるものになるんじゃないか。
そう思った時に、怖いけれども、「私実はこんなことやってみたいんだけど、こんなこと意味があるのかな」みたいな、設計図がないことをひそかにやっていく。倒れても引き返してもぶっ倒れてもいいから、とにかく続けるっていうことがすごく大事。
一年二年だったら、絶対こんなことになっていないと思うんですよ。例えばギター覚えるにしても、ぼく40年以上やってますから。そりゃまあ、何か1つ大きな意味があるものになりますよね。
さらけ出して初めて知った、頑張れない自分の価値
千葉先生:
一つのやり方だけではつまらない。全然違うやり方だから価値があるみたいな。
だからすごい得したなと思うのは、こういう全然外れたことやっているからこそ、逆にそういうことをやっている先生があまりいないので、価値があるって思ってくれる。
希少価値みたいなね。で、「こんな生き方もあるんだな」って思ってくれた方が、学生さんや院生さんも気持ちが楽になるというか。気持ちが楽になると、もうちょっと自分のもともと持っているいいものが発揮されるじゃないですか。「自分らしさの活用」っていうことですけど。
鬱とかの背後に「目の悪さ」っていうのがあって、でも言い訳になってしまうと言うか、それを言っちゃいけないんだって思ってきた。
それが、三年前にとんでもないぐらい目が悪くなっちゃって手術して、手術も失敗しちゃったから、目のことを問題にせざるを得ない。そういう状況の中で、一日中目のことが気になってしんどいみたいな人生でもう何十年も来ていることを振り返りました。
だからそうすると、そりゃあ頑張れないよなって。頑張れてないんですけど、そこで頑張れなくても仕方がなかったと思えて。そうしたら、「頑張れないなりに頑張ったな」と。逆に「すごいやってきたやん俺」っていう風に思えてきて。
あとはその、頑張れないからこそ頑張れなさを外に敢えて出しちゃうことで、絶対値がプラスに変わるみたいな。「どんだけ頑張れなかった私」って言うことで、それが聞いてくれた人が「私も私も」って集まってきてくれるから、それが価値あるものに変わるというか。
「自分らしさ」を表に出すことに、恐怖や後ろめたさを感じるのは自然なこと。それでも、自分を抑圧せずに「ポジティブな自分らしさ」を活用するすべを探ることで、いつか自分のやってきたことに意味が見つかる。さらに「ネガティブな自分らしさ」を活用することで、より居心地の良い人間関係が築けるのだと感じています。
本から始まる「語り合い」
千葉先生のライフヒストリーという、きわめて個人的な経験を記述して、どのような発見があったかというお話も聞きました。
千葉先生:
ぼくと同じような経験がある人は共感してくれるだろうし、全然違う経験の人は「ああ、私の経験は全然違うな」ってことで、それはそれで自分の経験に思いを馳せる。逆に言ったら、こんな人もいるんだってことで、多様性がわかりますよね。
ぼくの語りはあくまでぼくの経験なんだけども、一つの参考軸になると言うか。どっちが大切とかじゃなくて、相対軸ね。こういう人生だったんだってめっちゃ具体的にわかることで、一個一個の体験を比較する。例えば、外国人の女性との結婚を理由に親から結婚を反対されたっていう話。じゃあ私の場合どうだったんだろうみたいなね。結構今でも、日本人同士でも結婚大反対されて勘当されるとか、結婚式に出てくれないとかいっぱいあるんですよ、今でも!
だからぼくのエピソードを見て、いろんな人がぼくに開示してくれるんですよ。
「自分らしさ」で環境が変わる
千葉先生:
(アカデミックな世界は、ぼくにとって)普通に行ったら苦しさしかない世界だけど、自分が生きているちっちゃな環境はこの40年ですごく大きく変えられた。*2
例えば、学生さんとどんな風に話すのか、どういうことを話すのか、大きな転換ができた。それは、自分をできるだけ抑圧しないで、できるだけ自分のままで付き合うっていう形に変えたということ。
一人ひとりに寄り添おうとか、その人その人の思いを大切にするっていうこととか、多様であるっていうことが共通前提。それで、多様であるっていうことでバラバラにならないんですよね。みんなが多様ってわかったら、みんな同じじゃないですかね。そういうところで、深くつながり合える。だから多様性って言うこととか違っているっていうことを否定しなくても、社会は崩壊しない。
みんな同じですよねって下手に個性を殺すと軍隊と同じで、心の中では「くそったれ」って思ってるんですよ。表面的に従っているだけだから、本当のつながりじゃないと言うかね。
そういう形の人と人とのつながり、秩序の在り方の内実を根本的に変えていく。バラバラになるわけではなくて、意識的につながっていこうという思いを育成していく。そのプロセスで自分を殺さないでいく。
そうすると、私として生まれた意味が生まれて「あ、私のままで生きていっていいんだな」って、生がポジティブなものに捉えられる。お互いが自分たちの生をポジティブな形で捉えて、自分のとがったところも凹んだところも評価する。それで逆に評価してくれる相手に対しては、その人のとがりも評価したいと風に思えるので、「お互いに違っててよかったね」みたいなね。
*2: 書籍の本文では、これ以外にも、「自分らしさ」活用の事例が登場しています。
「優秀な教授」のサクセスストーリーではなく、「欠点」や「弱さ」を抱える生身の人間としての千葉先生が、苦しみにのたうち回りながらも「生きていること」の意味を見出そうと試行錯誤し続ける姿に心を打たれ、共感しました。『”研究者失格“のわたしが阪大でいっちゃんおもろい教授になるまで』は、自他の生き方を振り返り語り合うことを促す、「読み終わった時に始まる物語」でした。